最近、ブログを読んで、
私の心の向き合い方が参考になる、
文章の一文を何度も読み返した、
毎日の暮らしや気づきが素敵で、
私のことを言われているみたいで心に響いた、

なんて嬉しい言葉をいただくことがあって、
心のことを書くって、時間も労力も必要だから、
たくさんの気づきがあっても自分の心の中だけでとどめておくことも多いけれど、
でも私はシェアすることが好き!
教えてあげる、やってあげる、とかじゃなくて、
一緒に楽しもうよ、やろうよ、っていうことが好きだから、
私の経験や気づきが誰かの役に立つなら、と思って、今日も心のことを書いてみます。
聞こえないことについてです。
長文です。
ちょっと重い話かもしれないから、ところどころ癒しの写真をいれました♪



あるとき、5,6人で集まっていたときのこと。
初対面とかじゃなくて、もうよく知っている人たち。
会話が弾み、みんな楽しそう。
でも私にはみんなが何を話しているのかわからない。

以前なら、何を話しているのか教えてほしい、
と、いつでもどこでも頼んだものだけれど、
最近はそれは、人や場所にもよるようになって、
そのときは、頼みたい気持ちにはならなくて、黙っていました。
だから誰も私のことを気にしてくれる人はいませんでした。

そのとき、みんなが楽しそうに話すのを見ながら、

ああ、ここには私の(聞こえない)ことを理解してくれる人はいないんだなあ

ってことを思っていました。

以前ならそういう場にいるといたたまれなくて、
心では泣いていました。

でもそのときは、それを思ったけれど、つらい、悲しい、なんていうことは
思わなくて、ただそう思いながらそこにいました。

以前、いつでもどこでも私にも教えてほしい、と頼んでいたのは、
私も必ず会話の中に入らないといけない、入ることのできない私はだめだ、
みじめだ、と思っていたからです。

でも今までたくさんそういう機会(みんなが集まって話すとき)で
いろんな感情を感じて、自分の心を癒してきて、
今は、いつでもどこでも会話に入らなくてもいいんだ、
それで私はだめじゃない、みじめではない、と思えるようになったから、
それはいいことなんだと思います。
私がその会話の中にどうしても入りたいっていうときだけ、
頼むことにしようって、そんなふうに思うようになったんです。
また何も頼まなくても、書いたり、わかりやすく話してくれたり、
教えてくれる人もいて、そういう機会は多くなったので、
たまにわからなくてもいいかと満足できるようになったのもあります。

そして、そういうときに、心が痛まなくなったのも、
自分の心を癒して、自分はだめだとかみじめだと思わなくなってきたからだと
思うけれど、もしかしたらそのとき、ハートを閉じているのかもしれません。

ハートって開いたり閉じたりできるんですよ。
私はだいたいハートを開いて、人に接していることが多いけれど、
自分が傷つく、というときは、無意識に閉じてるのかもしれないなと思いました。

それはその後一人になって、そのときのことを思い出していたときに、

あのときやっぱり悲しかった、

っていう気持ちが出てきたんです。
それが正直な気持ちでした。
でもそれをみんなでいるときに感じたくなくて、ハートを閉じていたんだと思います。

どんなに自分の心を癒しても(まだ足りないのかもしれないけれど)
そういう場に慣れても、まわりでみんなが楽しそうに会話しているのに、
それが一人だけわからないというのは、私にとっては、悲しいことなんです。

以前はそれを会う人会う人にわかってもらいたくて、
一生懸命に伝えていたけれど、
先に書いたように、自分を癒してきたことと、
そして、どんなにがんばってもすべての人に理解してもらうことは難しいんだ、
といういい意味であきらめの気持ちを持てるようになって、
そうしなくなったのです。

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さっき、

ああ、ここには私の(聞こえない)ことを理解してくれる人はいないんだなあ

と書いたけれど、だからそこにいる人たちはだめなんだ、とか、
逆に、私がだめなんだ、ってうことは思っていません。

今はもう、ほとんど、周りの人や環境、状況のせいにすることはなくなり、
(あまりにショックなことだと、そのときはそうは思えないこともありますが)
また自分のせいにすることもなくなりました。
そのときに、私が何を感じたか、思ったか、
それにフォーカスするようになりました。

このときは、一人になったときに、「悲しかった」という気持ちが出てきて、
それを感じることもしたけれど、
そのとき思ったのは、もうこの悲しみは消えることはないのかもしれない、
私が聞こえないという障がいを持って生きる限りは、この悲しみという感情は
なくならない、もうなくそうとがんばるのではなくて、
この悲しみとともにいようと思いました。

悲しみがなくならなくてもいい、
この私の中から出てくる、悲しみに寄り添って生きて行こうと思いました。

そう思ったら、涙がいっぱい出てきて、
やっぱり私の中には、今まで我慢して感じないようにしてきた悲しみが
いっぱいあることに気づいたし、
悲しむことを否定せず、恐れず、そのほかネガティブな感情、たとえば怒りとか、
そういうものも否定せず、恐れず、
どんな感情がある私も、それでもいいよ、それが私だよ、って
生きて行こうと思いました。

そして私は、聞こえないこと=足りないこと、と思って、
その足りないことをほかのことで埋めようとしていたんだと思います。
もちろん聞こえないことで、ほかの感覚は発達していきました。
聞こえない分、よく見ようとするし、
記憶力もとてもいいです。(→きっと将来ぼけないと思う(笑))
感じる力も豊かだと思います。
でも足りないから、これができる私はいい、これを持っている私はいい、
っていう感じで、何かで埋めていて、
それは比較の心を生み出して、それはそれでまた苦しくなってしまっていました。

それでこのとき気づいたんですが、
聞こえないことは決して足りないことではないですが、
でもほかの人と同じようにできないことがあると、誰でもつらい気持ちになって
しまうものです。

それをだから自分はだめなんだ、とか、何をしてもどうしようもない、とか、
あきらめたり、自暴自棄になったり、人や環境を恨んでいたのでは
何も変わっていかないし、その気持ちがもっともっと悲惨なことを引き寄せることだって
あります。

そうではなく、ただそういうときに、自分が何を感じるかにフォーカスしてみるんです。
悲しい?怒ってる?つらい?って自分の本当の気持ちに寄り添ってみる。
そしてただその感情を感じてみる。
悲しいね、つらいね、腹が立つね、って自分で自分に言ってあげる、
そういう時間を持つんです。
そうするとその感情は消化、昇華されていきます。

私がさっき、この悲しみはなくならない、と書いたけれど、
感じたらなくなっていきますよ、
でもまたきっとそういうことがあったときに、悲しみは感じるだろうなってことで、
その都度、感じて消化、昇華していくんです。

感情は昇華していくし、そういう時間を持つこと自体が、自分を大切にしていること、
自分を愛してあげること、になるんです。

だから、人と違ってできないことがあって悲しくなるけれど、
その都度自分の感情に寄り添ってあげれば、自分を大切にする時間はたくさんになり、
足りないと思っていたところには、愛が入ってくると思ったんです!

足りないと思って悲しくてそれに寄り添って、自分を愛すれば、
その足りないところは愛で満たされる、そんなことに気づいたんです。

だから自分には足りないところがあるなあ、だめだなぁと思うような人は
それを責めるのではなくて、そのときに出てくる感情に寄り添ってほしいなと
思いました。

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そんなふうにいつもつらいなってことがあると、
自分の感情に寄り添ってきたんですが、
私はもしかしたら普通の人よりもその機会が多かったのかもしれません。

みんなが普通に楽しく会話できる場でも、ただ聞こえない、というだけで
つらくなってしまうんですから。

聞こえなくなったばかりのころからしばらくは、
同じように聞こえない人や、手話通訳の方(通訳とまではいかなくても手話ができる人)
との交流が多くありました。
手話や筆談、わかりやすく話してもらうことによって、
コミュニケーションはとても取りやすく、会話がとても楽しかった!

特に聞こえなくなった直後に、普通の人と話ができなくなったことを経験してからは、
手話で話して、その話の内容がわかったときの喜びといったら!
(私は簡単な手話を、聞こえない人たちが使うのを、ほぼ見て覚えました)

聞こえない人はそのときの私に限らず、聞こえない人同士や
手話ができる人と付き合いたがるものです。
やはりコミュニケーションができないというのはつらいからです。

でも私はそこから出ていくことを選びました。

自分のやりたいこと、生きたい世界がそこにはなかったからです。

コミュニケーションで苦労することはわかったいましたが、
コミュニケーションが楽だからと言って、自分のやりたいことや
生きたい世界をあきらめることはできなかったんです。

きっとコミュニケーション最優先で自分の生きる道を選んでいたら、
私は今はまだ、障がい者枠で会社で働いて、
休日にやっと自分の趣味を楽しむことでなんとか毎日をしのぐ、
そんな日々を送っていたかもしれません。

生活のための仕事、本当にやりたいことではないから、
とてもつまらなかっただろうし、仕事ができるできないで人と比べていたかもしれない、
仕事が私の人生だと勘違いしていたかもしれないです。

でも知り合いもいなかったこの田舎での暮らしに飛び込み、
最初は地元の人にも敬遠されたし、コミュニケーションで苦労して
今だって完ぺきとは言えない。

けれども、やっぱりこの暮らしは私が心から求めていたものだった、
だから一生懸命理解を求めようとしたし、
その都度傷ついた心を癒してきました。

そうしてもうこの家で暮らして8年目になります。

もし今も会社で勤めて、仕事が私の人生だと勘違いしていたら…?
考えたくもないです(>_<)

今は、毎日の暮らしが私の人生。
朝好きな時間に目覚めて、ネコにごはんをあげて、田んぼや畑や庭で作業し、
洋服を作って、自分で作ったお米や野菜でごはんを、
身の回りのものも身近な植物などで作って、
やりたいことができればWSを開催したり、
悩みや心のことに興味がある人にリーディングして、
田舎暮らしに興味がある人がいれば遊びに来てもらったり、
行きたいところがあれば出かけるし、
誰かと会いたければ会って、一人で過ごしたければ一人で過ごす、
うれしいことがあれば喜び、悲しいことがあれば悲しんで泣いて…
今の暮らしや生き方にも満足しているけれど、
もっとこうなったらいいな、と思い描くこともいっぱい!

そうして過ごすことは、生きることは、誰かと比べるものではない、
私だけのもの、私だけが満足していたら、それでいい。



そんなふうに思えるような毎日が送れているのも、
コツコツといつも心と向き合ってきたからだと思います。

それをしなかったら、きっと今私はここにはいなかったと思います。
思い切って飛び込んでくることはできても、
その後続かなかったかも、って思います。

心と向き合うだけでは何かをすぐに変えることはできないかもしれない、
えいっと飛び込む勇気だって必要です。

でももしそんな勇気も持てないし、変化がほしいけれど、
どこから手を付けていいのかわからない、自分の心を見つめてみたら、
何か変わるのかもしれない、そんなふうに思う人はぜひぜひやってみてください。

自分なんてだめだ、って思う人にはぜひやってもらいたいです。

一人でやるのが難しい人には、リーディングなどでお手伝いしますよ♪
もちろん有料( *´艸`)



最初に、みんなが話していることがわからなくて…と書いたけれど、
それは今は一部です。

今はお願いしなくても、みんなが集まる場でわかりやすく話してくれたり、
書いてくれたり、そういうことが多くなってきて、
お願いしないのにやってもらるなんて!とうれしい驚きのほうが多いのです。
手話を覚えてくれたり、覚えてくれようとする人もいて、そのこともすごくうれしくて、
そういうふうに、配慮してくれことに対して、いつもいつもありがとう💕
と思っています。

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みんなありがとう💕 (写真は倉田さやかちゃん)




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